ゲームの定義と基本構造を考える

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基本構造をさらに見る

定義と基本構造の関係を確認したところで、基本構造の触れていない部分も見ていきたいと思います。

 プレイヤーを参加させるもの

基本構造のメカニズムでサラッとプレイヤーをゲームに参加させていましたが、プレイヤーはなぜゲームに参加できるのでしょうか。

それは、ゲームには常に「参加する自由」と「参加しない自由」が存在するからです。

参加する自由とは、拒まれないことを意味し、求められてなくても自分さえ望めば自由に参加できることです。参加しない自由とは、強制されないことを意味し、どれだけ求められても参加を断れることです。

ゲームに参加する自由と参加しない自由とは、プレイヤーの内心の自由に近いものだと考えられます。

 ゲームの内と外を分ける境界線

【図1】のとおりゲームには境界線があるように見えますが、この境界線はどこにあるのでしょうか。

私は、プレイヤーがゲーム体験の存在を認識した地点がゲームの境界線であり、ゲームはゲーム体験を認識するプレイヤーの数だけ拡がっていくものだと考えています。

ゲーム体験を認識したプレイヤーは文字通りゲームの境界線上に存在しています。ここでプレイヤーとゲーム体験との間にゲーム性が生じればゲームに参加します。逆にゲーム性が生じなければゲームに参加せず境界線上に留まり続け、やがて離れていきます。離れていくというのはプレイヤーがゲーム体験の存在を忘れてしまうことです。

 成果とゲーム性

【図1】で示したゲーム性の下に※で厳密には「成果を出力」まで含むと記載がありました。このことについて考えていきます。

ゲーム性はプレイヤーの視点からは「ゲームをプレイしたいという衝動の感じやすさ」のように見えますが、クリエイターの視点から見ると「ゲームから成果を得るために必要なプレイヤーの力の引き出しやすさ」と表現できます。

ゲーム性が生じる限りゲームは動き続け、クリエイターは多くの成果を得ることができます。つまりゲーム性には「クリエイターの欲求の満たされやすさ」という側面があるのです。

定義とクリエイターの関係

基本構造におけるゲームの考察を深めてきましたが、ここからは基本構造を用いてゲームの定義とクリエイターの関係を考えていきたいと思います。

 クリエイターがゲームに含まれない理由

基本構造ではゲームの外側にクリエイターが表されています。論争となりそうな表現ですね。詳しく見ていきましょう。

まずは、ゲームがゲーム体験とプレイヤーのみで成立していることです。プレイヤーは基本的にクリエイターを必要とせず、ゲーム体験も不具合が無ければ自動的に動き続けます。一度ゲームが成立してしまえばクリエイターがゲームの中にいる必要はないのです。

次に、ゲームの定義にある「自動的に実行する仕組み」と矛盾することです。基本構造はクリエイターの視点で表されており、「自動的に実行する仕組み」とはクリエイターが力を加えることなくゲーム体験が実行されることを意味します。

【図1】では分かりにくいですが、クリエイターがゲームデザインでゲーム体験を作っている段階ではゲームもゲームの境界線も存在しません。つまり、ゲームデザインはゲームの成立前に行われているのです。

ゲームはゲーム体験が完成しプレイヤーが参加することで成立します。もしも、ゲームデザインを行っている段階でゲームが存在してしまうと、クリエイターはゲームの中でゲームデザインという力を加えてプレイヤーにゲーム体験を実行してもらう助力をしていることになります。

定義と矛盾しないためにはクリエイターがゲームの外側にいる必要があるのです。なお、【図1】では離れた距離にありますが、クリエイターはゲームの境界線に外側から接しているイメージです。

 クリエイターはゲームの中に入れない

クリエイターは先に述べたとおりゲームの中に入ることができません。しかし、現実にはゲーム体験の修正が必要となりゲームの中に入りたくなる場面があります。

この問題は修正の捉え方で解決することができます。つまり、修正するのではなく新しいゲームを作ると考えるのです。

例え無数にあるゲーム要素のうちの一つに手を加えるだけだったとしても、それを全く新しいゲーム体験だと捉えるのです。新しいゲームを作るのであればゲームデザインをしてもゲームの中に入ることはありません。

修正というゲームデザインが終わった後、改めてプレイヤーには新しくなったゲームに参加してもらいます。プレイヤーはゲームデザインの結果に追従する存在であり、クリエイターは基本構造にあるとおり常にゲームの外にいるのです。

 クリエイターはゲームの中に入れる

クリエイターが客体化

クリエイターはゲームの中に入れます。

いきなり矛盾するようなことを言いだしましたが、定義に反しない方法でクリエイターがゲームの中に入る方法があります。

それは「クリエイターの客体化」です。【図2】は、クリエイターの視点から表したクリエイターの客体化の類型です。

客体は主体と関係なく存在する意識を持たない物事であり、主体の意思や行為の対象となります。対して主体は意識が所在する物事であり通常は自分自身のことです。

客体化とは特定の対象を客体として捉えることであり、客体化された対象は例え意識を持った人であっても意識を持たない物事として扱われやすくなります。

クリエイターの客体化とは、クリエイターが「主体となる自分」と「客体となる自分」を区別することです。そして客体化されたクリエイターは主体となるクリエイターから自分とは異なる都合の良い存在として扱われます。

クリエイターの視点からは、客体化されたクリエイターはゲームの中で主体となるクリエイターと異なる存在に見えます。そのため、客体化されたクリエイターはゲームの中に入り行動することができます。【図2】にある例を見ていきましょう。

【図2】のAは、客体化されたクリエイターがゲーム内でプレイヤーの役割を担っているものです。

クリエイターとプレイヤーは同一人物ですが、客体化されたクリエイターは主体となるクリエイターの視点からは自分とは異なる存在のプレイヤーに見えています。

このように一見ゲームの定義や基本構造と矛盾するようなゲームもクリエイターの捉え方によって成立することがあります。

【図2】のBは、客体化されたクリエイターがゲーム要素の一部として機能しているものです。

プレイヤーの視点からはゲーム体験の中にクリエイターがいるように見えています。クリエイターの視点からはプレイヤーがスムーズにゲーム体験を実行できるように助力するゲーム要素のひとつに見えています。

クリエイターを客体化して基本構造を捉えるのはクリエイターの負担を可視化することにつながります。これによって、クリエイターは自分が担っている役割の一部を他の人や物事に移せる可能性に気づきやすくなります。

この客体化した構造の捉え方は一例であり、基本構造を用いると様々なゲームの構造をいくつもの視点から捉えやすくなります。

 

余談ですが、自分や他者を客体化するのは珍しいことではなく誰もが自然に行っていることです。

この客体化が過剰になると様々な問題が起こります。例えば、他者を過剰に客体化して乱暴に扱ってしまうことです。

また、自分を過剰に客体化してしまうことも問題があります。

自分の主体を他者に移してしまい自分を客体として従属関係となったり、俯瞰した自分が主体となり自分の肉体を客体とみなして乱暴に扱うようなことです。このように過剰な自分の客体化が進むと本当に大切にすべき主体となる自分が分からなくなってしまいます。

自分を過剰に客体化する現象は、自己肯定感が低く自責思考の強い人、周囲の視線や自分の容姿が気になってしまう人、見られる仕事の多い芸能人などに起こりやすいと言われています。

自分を極度に客体化しすぎてしまうと、自身を乱暴に扱う破滅的な行為に至りやすくなります。

自らクリエイターとなろうとする人は行動力があるので、もしかしたらワーカホリックな人が多いかもしれません。ですが、自身を過度に客体化せず自分を労わる気持ちを大切にしてほしいと思います。

総括

長くなりましたがゲームの定義と基本構造について考察してきました。

既存のゲームに関する議論はクリエイターとプレイヤーの視点、いわばマクロとミクロの視点が混在しています。本記事のようなマクロの視点に徹したゲームの考察は珍しいかもしれません。

私なりに既存のゲームに関する理論を包括し、可能な限り意見の違いが共存できるように努めたつもりですが、これまで多くの人達によってされてきたものとは大きく視点を変えて考察したため至らなかったところもあると思います。

あくまで私が示したゲームの定義に基づくものですが、今回紹介したようなシンプルな基本構造でゲームを捉えることは、ゲーム性の所在や性質を視覚的に理解するうえで非常に有効だと思いました。

ゲーム性の議論はゲーム体験の内容やプレイヤーの感じ方に解を求められやすいものです。しかし、今回の考察ではゲーム体験とプレイヤーの間に存在する力の流れのようだと気づくことができました。

この力の流れはゲーム体験とプレイヤーの相性によって強くも弱くもなります。だからこそ、ゲーム性の感じ方には個人差が生じるのだと思います。こういった気づきや発見はクリエイターの視点を徹底して考察してきたからこそ得られたものだと思います。

今回はクリエイターの視点を徹底したため、プレイヤーがゲームがどのように見てゲーム体験をどのように感じるのか一切言及しませんでした。

実際のゲームデザインでは、プレイヤーの視点からゲームを見ることがとても重要です。もっと細部を見る視点が必要となります。まさにミクロの視点です。ゲームの見え方は今回定義したような抽象的なものではなく具体的で解像度の高いものとなるでしょう。

ゲーム体験は内容を考察する必要がでてきます。プレイヤーの感じ方は心理の奥底まで想像しなくてはなりません。

プレイヤーがゲームに求めるものに決まりはないと思いますが、今回取り扱わなかった「面白さ」や「感動」といった要素もプレイヤーの視点でゲームを語るには欠かせないと思います。

ゲームという人が作り出した現象を理解するには、まだまだ考えなくてはならないことがたくさん残っています。果てしない道のりですが、この記事が私のゲームに関する考察のスタートラインです。ここから多くのテーマを取り扱い、さらに考えを深めていきたいと思います。

 

あとがき

最後までお読みいただきありがとうございました。この記事の内容は筆者個人の考察に基づいたものです。

ご意見ご感想がありましたらページ下部のコメント欄に是非お書きください。また本記事について各SNSで「#ゲームデザイン思考」をつけて投稿いただけると幸いです。

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